弟橘媛はいずこへ

Where have you been?

みさざき島

misazaki Iland

どこに行かれたのは今も謎のまま

千葉県安房郡鋸南町勝山地先

千葉県 弟橘媛の伝説

日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征時に海難に遭い、入水して鎮めた后弟橘媛(おとたちばなひめ)の亡骸が漂着したという。

妃の亡骸は「みささぎ島]に漂着しました。近くに碑もあったとされています。(みささぎ)と言葉は天皇・皇后のお墓という意味です


現在はミサゴ島と言います。由来の操、天皇御陵の陵(みささぎ)、または身捧ぎから名付けられたのでしょうか。

 

 景行天皇(けいこうてんのう)40年7月16日、

上総(千葉県)に渡航中、日本武尊が「こんな小さな海など跳んで渡れよう」と湾を軽視する発言をしたため海神に祟られ、后である弟橘媛が皇子の身代わりに自ら人身御供となり海に身を沈め、海神の怒りと嵐を鎮めた。


 この荒れた海は馳水の海(はしりみず。走水とも。現在の浦賀水道)と名付けられた。

 みささぎ島に遺体が流れ着いた言い伝えと同様、沿岸に弟橘媛の所持品が流れ着き、袖は「袖ヶ浦」、腰巻が飯野の地に流れ着き「富津(布流津)」の地名の由来の一つとなる。


 日本武尊が弟橘媛を偲んで「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」と詠んだキミサラズ(君不去)が「木更津」「君津」となり、上総地区四市全て弟橘媛の伝説が語源に関わっている。


 また蝦夷の島津神・国津神を平らげた帰路、鳥居峠(長野県上田市と群馬県嬬恋村の境)から東国を望んで弟橘姫を思い出し「吾妻はや」(あずまはや。「我が妻よ、ああ」の意味)と三度嘆いたので、峠より東をアズマの国と呼ばれるようになったという。

 

隣の浮島の景行天皇伝説

浮島は、勝山漁港の目の前にある周囲約780mの無人島です。浮島には次のような伝説が存在します。東国平定を成し遂げた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の死後、父の景行天皇は皇子と同じ旅路をたどり、弟橘姫の供養も兼ね、浮島に着いた。浮島がとても気に入った天皇は、しばらく滞在したと言われます。この時、天皇に同行していた磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)が浜辺でとれた大きな蛤や、角で作った弓の先で釣り上げた堅魚(鰹)を料理して天皇に差し上げたところたいそう喜ばれ、以来、天皇家の料理番となりました。後に料理の神様としても祭られるようになったのです。

色濃く残る天皇の行幸

島渡し(島まつり)】

浮島で左の穴のあいた島がオオボッケ・小さな島がコボッケ。浮島には浮島神社があり祭神は景行天皇・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)・磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)です。普段祭神は勝山神社にありますので、毎年7月の第2土曜日、勝山祭礼の次の日の日曜日に浮島神社に御霊を渡す「島まつり」を行っています。「島まつり」は同時に「クジラまつり」であり、御霊をお迎えする時には、船縁(ふなべり)をたたきながらクジラ唄を歌い、クジラを捕り悠々と運んでくる様を再現しています。天皇塚では竹に付けた提灯で提灯行列し迎えています。

 

浮島に天皇行宮の遺跡」 

浮島神社に行幸のみぎり御神祭に用いた祭器・神鏡一体は、天皇奉納と伝えられる。

 

・鳥居島(とりいじま)に往古一の鳥居

・朝廷に献上した朝貢島(ちょうご島)

・高塚角(たかつかかど)  の場所に磐鹿六雁命没後塚を作った

・天皇塚・天皇井戸・天皇通り

  (島渡しのお祭りにはここが中心となる)

浮島まつり