古事記 日本武尊の物語
ヤマトタケルの東征(とうせい)
天皇は、こうおっしゃて、ヤマトタケルを驚かせました。
「東の方の十二ある国々(伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)には、まだ乱暴な神々や従わない人々がたくさんいる。それらをみな征伐して来なさい。」
天皇は、このようにしきりにおっしゃって、キビノタケヒコ(吉備の臣の祖先で、ミスキトモミミタケヒコ)という者をお伴にされ、ヤマトタケルを征伐に行かせる時に、柊(ひいらぎ)の木で作られた長い矛(ほこ)をお授けになりました。
ヤマトタケルは、天皇の命令を受けて、やむなくヤマトの国を出発しましたが、まず伊勢神宮を参拝(さんぱい)するために、立ち寄られました。そこで、その神殿にお仕えになっている叔母さんであるヤマトヒメに、こう訴えられたのです。
「父の天皇は、わたしが一刻も早く死んでしまった方がよいと思われているのでしょうか。なぜなのでしょうか。わたしは、西の国の悪い者たちをすべてやっつけて、ヤマトヘ帰ったばかりというのに、すぐに父は、兵も与えてくれずに、さらに東の十二の国の悪人たちを征伐して来いとおっしゃった。これはどう考えても、わたしのことを早く死んでしまえと思われているからにちがいありません。」
このように、悲しみながらすすり泣くヤマトタケルの姿を見たヤマトヒメは、どてもかわいそうに思って、天皇家の宝である叢雲の剣(むらくものつるぎ=スサノオノミコトが、八岐大蛇を退治したときに、その尾から出て来た刀。)と一つの小さな袋を授けて、こうおっしゃいました。
「もし、あなたの身に危ないことがあれば、この袋の口を開けなさい。」
草薙の剣(くさなぎのつるぎ)
そして、ヤマトタケルは、相模の国(現在の神奈川県)に入りました。すると、相模の国造たちが、
「この野には、大きな沼があって、そこに住んでいる神は、とても乱暴な神です。」
と嘘を言って、ヤマトタケルをだまそうとしたのです。ヤマトタケルが、その神を見てやろうと思って、その野に入ったところ、待ち伏せしていた国造たちが、いっせいに野に火を放ちました。火はたちまちのうちに、ヤマトタケルの周りを包み込みました。
「ちくしょうめ、だまされたか。」
と言って、ヤマトタケルは、叔母のヤマトヒメの言葉を思い出し、もらった袋の口を開けました。するとそこには、火打石が入っていました。そこで、ヤマトタケルは、まず草を刀で切り払って、その切った草に火打石で火をつけました。するとどうでしょう、燃え上がった火が向かい火となって、周りの火も鎮まりました。
そこで一旦、ヤマトタケルはその場所を逃げ出し、隠れていた国造どもをすべて切り殺し、その死体に火を付けすべて焼いてしましました。
このようなことから、今では、その刀を草薙の剣(くさなぎのつるぎ)三種の神器の一つ。熱田神宮に祀られる)といい、この場所を焼津(やいづ=静岡県焼津市?)というようになったのです。
オトタチバナヒメ
それからヤマトタケルはさらに東を目指して進んで行きました。走水海(はしりみずのうみ=現在の神奈川県三浦半島と千葉県房総半島との間の水道)を渡ろうとしたところ、その海の神が波を起こしたため、船はくるくると回転してしまい、一向に前に進むことが出来ませんでした。すると、この船に一緒に乗っていたヤマトタケルの妻の一人のオトタチバナヒメが立ち上がっていいました。
「わたしが、この乱暴な海の神を鎮めるために、あなたのかわりに海に入りしましょう。あなたは、天皇から命じられた任務を立派に果たして、ご報告申し上げなければなりません。」
そうして、オトタチバナヒメは、海の波の上に菅(すげ)で作ったござを八枚、皮で作ったござを八枚、絹で作ったござを八枚敷いて、その上にお降りになって、次のような歌をお詠みになりました。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
これも、あの相模の国の野で燃える火の中で、わたしの名を呼んでくださった愛するあなたのためですもの。
そして、オトタチバナヒメは、海に身を投げたのでした。すると、荒波はおさまり静かになって、船は無事に海を渡ることができました。
それから七日後、海岸にオトタチバナヒメが身につけていた櫛(くし)が流れ着きました。ヤマトタケルの目から、愛する妻を失った悲しみの涙があふれ出しました。そこで、オトタチバナヒメのお墓を作り、その中に櫛を納められました。
ヤマトタケルは、さらに東へ行って、乱暴なエミシたちをことごとく倒し、山や川の悪い神々もすべて従えました。そして、西へ引き返す途中の足柄(神奈川県足柄町)の坂の麓(ふもと)で、乾飯(かれいい=乾れ飯。携帯の食糧)を食べていたところ、その坂の神が白い鹿に変身して下りて来て、ヤマトタケルの前に近づいてきました。ヤマトタケルは、鹿が近づくのを待って、すばやく食べ残したネギ(ノビル)を投げつけると、それが目にあたって、鹿は死んでしまいました。そして、坂の上に登り、今来た東の方角を見て、三たび亡くなったオトタチバナヒメのことを思い出され、何度も嘆きながら、こう言いました。
「ああ、我が妻よ。」
だから、この東の国々のことを「あづま(吾妻)」というようになったのです。